はみだし教師らのすけのむだ日記 

不登校ときどき田んぼ 寄り道しようよ

そしてらのすけは 通信制高校で働くようになった の巻

そんなわけで(いきなり)

全日制高校を退職し、今春から通信制高校に入ったらのすけであります!

 

前任校(全日制底辺校)で思ったのは

 らのすけは一人一人に寄り添うのは得意だが、集団をまとめるのは不得手である。

 なぜなら、らのすけは圧が弱すぎて(という圧をかかける気がない)生徒が言うことを聞かない(泣)からだ。

 あくまで一人の人間として、物事の意味を分かってほしいと思うので、外的な刺激で止めさせるというのは望まない。

 しかし圧やペナルティでコントロールするタイプの学校にいると、緩そうな先生はなめられてしまう。(もちろんこちらも頑張って指導しているんですがね!)

 生徒は強い先生の前ではビシッとし、緩い先生の前だとお休みモードになってしまう。結構傷つく。かといってらのすけは「てめぇ何やってんだコラ~怒」というキャラじゃない。

 しかし、どうしても大勢の生徒を(しかもやんちゃな子たち)一度に安全に動かすには、ある程度の力技が必要だと言うこともよーくわかった。

綺麗ごとではなく命にも関わるし、生徒にこちらが思うように理解せよと望むことにも無理があると気づいた。そもそも1対1でしっかり向き合うには、大勢は限界がある。

 そして、らのすけは、努力とかではなく、ここにいるべき人材でもないなと思った。

 

 また、学校を辞めていった生徒たちは、集団のルールからはみ出てしまう子であったが、らのすけがしっかり向き合いたいのは、まさにこういう生徒なのだと思った。(なんやかや、卒業できた子たちはそれなりに生きていけるであろうと思うので。)

 

という訳で、はみだし教師らのすけは、はみだし生徒としっかり向き合うべく!

通信制高校に武者修行に参ろうとしたのである。

 

12年連続で過去最多を更新し続けている不登校者数は小中学生あわせて役35万人、高校生6万7千人、全体の3.5%(約30人に1人くらい)が不登校となっている。クラスに約1人は不登校者がいるという計算になる。※文部科学省 R6年度公表データより

 

これを多いと見るか少ないと見るか?

らのすけは正直、もっといてもおかしくないと感じた。つまり、我慢して学校に行っているような潜在的不登校者はもっといるのではないだろうかと。

 

「多様性」と叫ばれるようになって久しいが、

「どこが多様性じゃ~い!!」と感じるような学校現場があります。

 

頭では多様性を認める、分かっている(つもり)かもしれませんが、どちらかと言うと生徒より教員側に多様性のマインドがない気がします。それはなぜなら、

 

多様性を認める=集団を一律に管理できない からです。コスパ悪いんですよ。

 

これって、教員側は見て見ぬふりをしておると、らのすけは思います。

だって想像してみてください。髪型ひとつ取っても、「多様性」を認めてしまったら、じゃあカラーリングしても良いんだ!に結びついてしまうので、教員はそんなものは認めずに一律管理した方が良いんです。

カラーリングをしてはいけないのはなぜか?という議論をいちいちするのは火種を増やすので面倒なのです。だから、火種は消すのです。

 

らのすけが今働いている通信制高校は、髪型や髪色も自由。メイクやピアスも自由!

あんなに心を疲弊させていた校則違反の取り締まりがないので、今らのすけは、そこに関しては非常に楽になりました。

てか、まじで時間と労力の無駄だった、と改めて思います。教育の論点、そこじゃない!メイクとか、ツーブロの位置とか、心からどうでもいい!!

 

ということで、これからしばらく、通信制高校についても書いていきますね。

 

 

 

 

らのすけ 全日制高校を辞めた! の巻

こんばんは。なんとなんと、1年半以上もご無沙汰してしまいました!らのすけです。

 

実はらのすけ

昨年度で前任の全日制高校を辞めました!

 

前任校では、よくわからん校則や型に嵌め矯正する指導方針に違和感を感じつつも3年間耐え、今となっては、大きな学びを得たと思っています。

なんでしょう、あんな学校なのに(というと語弊がありますがww)生徒はとてもその高校が大好きなんですよね。卒業生もよく遊びに来て「あの時はやらかして○○先生ガチギレまじ終わったと思ったけどおもろ」みたいな感じで、懐かしんでいきます笑。

 

それは何故なんだろうかと考えると、平たく言えば、面倒見が良かったからだと思うのです。まぁとにかく、学校全体が小姑のお節介焼きの集まりというのですかね。(こう聞くと嫌ですねw)なかなかに天然記念物級の、昭和感のある教育でした。

 

あとは規模がちょうどいい。1学年6クラスくらいで、生徒数が多過ぎず目が届きやすいので、教員も生徒も、何なら生徒の兄弟や親までも卒業生だったりと、大体顔見知りのような感じ。見過ごされがちですが規模感って実は、めちゃくちゃ大事だと思う。

 

卒業式、らのすけ2回やりました。出席日数が足りず、卒業式に卒業できなかった生徒は奉仕作業なるものをして、別日に卒業式をするんです。みんな卒業した後に、その生徒だけ学校に来て奉仕作業するんです。ワックスがけとかね、掃除とかね。いやはや、大変でした。毎朝、モーニングコールして起こしたものですよ。その分卒業できた時の喜び?いや安堵はひとしおでした。

卒業式なんて、まじでアイドル並みに花束やらプレゼントやらを貰って、涙涙でした。これも前任校の文化?なんだと思うんですよね。在学中は「この学校キモい。うぜー」とか言ってたくせに。生徒がすごく、最終的には感謝をして卒業していく。

 

これが本当に、ずっと、謎だったのです。

教育ってそう単純ではないのだなと感じます。

 

確かに、理想の学校があったら素晴らしいし、間違いなく楽しいであろう。不登校になる生徒も少ないだろう。でも、生徒にとって理不尽だったりするややハードモードな学校が必ずしも悪いのかというと、一概にそうとも言えない。なんなら未だに多くの生徒はそういう学校が好きかもしれない。ということを身をもって知りました。

とある生徒が「〇〇高校は間違いなく僕のメンタルアカデミアであった」と言っていたが言い得て妙でしたww。今後大概のことは切り抜けられる気がする。

ただもちろん、こういう学校に合わない生徒も一定数居て、そういう生徒には地獄のような場所になってしまう。なので結局のところ、多様な生徒を受け入れる学校ではないということにはなります。

 

らのすけは教員になってから、教育とはなんぞやとずっと考えているのですが、どんな学校にもそれぞれの美学があるということが分かりました。(あ、もちろん暴力とかは論外ですが)

全日制のコスパ重視のザ・集団教育は、時代遅れではあるが、日本人の美徳を一部体現しているようなところもある訳で、全否定すべきとも思いません。集団でないと成し遂げられないことは多々あるし、文化祭や体育祭の盛り上がりなんかはやはり、魅力ではありますね。

 

でも、、、らのすけは3年間が限界でした!

いやーーーよくがんばった、我ながら!おつかれ、らのすけ!

 

つづく

「千葉県の不登校を考える」講演会に参加しました。

昨日らのすけ、こちらの講演会に行ってきました!

基調講演は、前広島県教育長の平川理恵さんによる「自治体からの不登校支援」

その後は分科会に分かれ、「地域の大人ができること」「ホームスクールを孤立させないために」それぞれ情報をシェアする構成でした。

また、参加者はフリースクール等の不登校教育に関わる市民や教員だけでなく、議員さんや自治体職員の方々が多く、不登校教育の実情を学びにいらしているようでした。
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堅い内容なのですが、チャッキチャキ関西弁平川さんトーク炸裂で、めちゃくちゃ面白かったのです!!明るく人情味があってバサバサ斬っていく感じサイコー笑

ラジオ番組にご出演されているらしいので聴いてみてください。

voicy.jp

全国で不登校児童数は増える一方、ついに34万人に達しましたが、千葉県では全国に先駆け2023年「千葉県不登校児童生徒の教育機会の確保を支援する条例」なるものが成立。各自治体との連携や財源の措置などに県が乗り出しているそうなのです。

ご存じないですよね??

おそらく、不登校というのは当事者や保護者、学校関係者など、直接関わった人でないと、どこか他人事というか、ピンと来ないと思いますしそれも仕方ないと思います。

でも、今多くの若者が感じている世の閉塞感であったり、何となく生きづらい、、という雰囲気が蔓延しているのはおそらく、その社会の価値観を生み出している学校教育が行き詰まりを見せているからなのではないでしょうか。

らのすけも、勤務先の私立高校で日々疲れてため息ばかりついています、、。

生徒の前では元気でいないと、と無理してますが、正直辛いです泣。

 

も~! 一体このどん詰まり感は何なんだ?!

 

それはやはり、一人ひとりの子どもたちの個性や能力を伸ばすのではなく、一律の型に当てはめてコスパ良く管理しようとするところな気がします。

例えばらのすけの勤務先でもそうですが、意味のわからない校則でも破ったら違反切符が出され何枚溜まるとペナルティで奉仕作業とか。意義を唱えてもまず通らないし、限りなくゼロ・トレランス、とか。

凡事徹底は大事ではありますが、限りなく発達障害グレーゾーン的な生徒にも「こんな事もきちんと出来ないんじゃこの先生きていけないよ。」を連呼する教員たち

生徒に考える隙を与えないので、とにかく「圧」で黙らせる。

結果どうなるかというと、例えば強面の男性体育教員の前だったりすると生徒は一瞬で黙りお利口さんのフリをするけれど本音は一切言わず、らのすけのようにまるで威厳のない教員の前では徹底的にだらけるが、本音も吐きまくる。

皆が皆、ゼロ・トレランス的な教育をしていれば、短期的なコスパはいいかもしれません。何となく統率が取れている「風」でも、心や思考の教育としてはどうでしょう?

長期的に見たら、こういう教育を受けた生徒は「考える能力」と「心」と「元気」を失ってしまうのではないのでしょうか。

おバカな子はあまり気づかないので逞しく生きていけるかもしれません(本校の生徒はそういう子が多いのは確か。元気ですね笑)。本質を見ることができる繊細な子や賢い子ほど、その矛盾にやられてしまうと思います。

 

前のブログにも書きましたが、先日見た二本の映画で感じた事は、いわゆる典型的な日本の公立教育は「管理教育」であり、確かに日本人の勤勉さや丁寧さや和の尊重など良い点もあるけれど、一番の弊害は「画一化を暗黙のうちに強いること」なのではないかと思うのです。

らのすけは、世に色々な教義があって良いと思うんです。皆が皆、自由な教育方針が合うとも限らないし、どんな教育にもそれなりの「美学」が存在すると思っています。

でも、人にそれを強いるのは人権侵害です。個人の自由です。

だからこその「教育の多様化」が求められ、今その転換期にあるからこそ不登校者が増えているのでしょう。

昨日の講演で一番印象的だったのは、平川さんが対談者の戸田徹弥さん(オルタナティブスクール運営者で元公立小学校教師)に「なんで公立やめたの?校長先生になって学校を変えれば良かったのに!」というような旨をおしゃっていたことです。

うーむ、たしかに。

不登校者の受け皿を増やすことは大事です。学びの多様化のためにも色々な学校があっていい。なきゃいけない。

でも、日本全体が大きく変わっていくためには、公立学校が変わらねばならない。

もちろん、すべての公立学校がきのくに子どもの村学園みたいにならなくていい(それこそが多様性) 

でも、絶対的マジョリティであり大事な青年期を作る公教育が、

少なくとも「行きたい!」と思える場所に変わっていかねば、

日本の未来はない。

ってこと、ですよね。

 

「小学校~それは小さな社会~」と「夢見る小学校 完結編」をみた

先日、日本における「真逆の」?教育現場を描いた、2本のドキュメンタリー映画を観ました。
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1本目の「小学校~それは小さな社会~」は、イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ監督の作品です。https://shogakko-film.com/

 

世田谷区にある公立小学校の学校生活を描いているのですが、給食の配膳や清掃、特活など、我々日本人は至極当たり前としてやってきたことが実は、「日本人」のベースを作っているのでは?と、海外から絶賛されているとのことなのです。

整然と並べられた下駄箱や校内の様々な係の仕事、ご近所の迷惑にならぬようにとても気遣いをしながらする散歩、給食の配膳を通してマナーや公平性を学ぶこと、出し物などの共同制作を、挫折を繰り返しながらも子どもたちが一生懸命作り上げる姿など・・

こうした責任感や協力の意識、掃除など自分のことは自分でやることは、海外ではあまり教えられていないようで、日本式の教育が見直されているというのです。

 

らのすけは、最初この映画のレビューを見たとき、意外すぎて驚きました!

どちらかというと、日本の教育は型にはめ規律が厳しいという、ネガティブな側面が強いと思っていたからです。

観終わってみて正直、やはりそこまで典型的日本の公立教育が素晴らしい!と手放しで思うことはありませんでした。観ていて「息苦しい・・」と感じることもありました。

でも、海外と比較し客観的に観てみると確かに、日本の教育の優れたところは沢山あるんだなと思うところがあったと思います。

災害時も忍耐強く、暴動が起きないとか、列を乱さないとか、時間を厳守するなど

やはり集団生活をするうえで欠かせない能力は、公教育のお陰でしっかりと身に染み付いていると思いました。

らのすけ的には、この映画の見どころは他にも沢山あって書ききれないので他の記事に書きますね。先生たちや子どもたちに焦点を当てると、豊かなドラマに見えてきます!

 

2本目は「夢見る小学校 完結編」オオタ・ヴィン監督 です。

こちらは、きのくに子どもの村学園という小中一貫の私立学校の日常を主に描いたドキュメントなのですが、まぁ雑に表現すれば、一般的な公立学校とは「正反対」の教育です。

・「先生」ではなく「大人」 つまり上下関係がなくフラット

・授業時数の半分はプロジェクト型 やりたいことも子どもたちが企画する

・「教えない」教育→「待つ」 子どもが自ら「問う」ことを重んじる

・職員室はフリー ノックもしない!授業に飽きたら廊下に出て休憩してもいい

・子どもも教師も楽しくなければ学校じゃない。そして子どもも大人も自由!

・「自由には責任が伴う」はダメ。大人が責任を取り、失敗した子ども自身が失敗から学ぶ。

などなど。今も大多数の人が「そんなんで大丈夫なの?」とツッコミを入れてきそうですね笑。表面的に見ると確かに、子どもの統率が取れるのかとか、礼儀やマナー基礎学力は身につくのか、我が儘に育つのでは?など様々な疑問が湧くかと思います。

でも、ここで描かれている子ども達は、自分で感じ、考え、挫折を味わいながらもしっかりと自分の意志で歩んでいっているように見えます。また、学力面は個人差があると思いますが、ここの卒業生は卒業後、高校に入ってからはむしろ楽なんだとか?

探求型の授業を通じて、問題解決力を身に付けて来ているので、大学の総合型選抜入試などには圧倒的に有利なのではないかなと感じました。

そして何よりも!子ども達が「素」のままなんです。『この学校にいると「私」でいられる』というようなことを言っていた子の言葉が印象的でした。

 

ちなみに、ここに出てくる学校はちゃんと文部科学省の認可を受けた学校です。

また、公立の中学校なども登場するのですが、公立でも「通知表がない」「宿題がない」「校則がない(生徒が決める等)」学校もあるのです。

実は公立の教育というのは一律で決まっているわけではなく校長の裁量で自由に決められるのです。

www.dreaming-school.com

この2本を両方観たことで、両者それぞれ長所短所があることが分かりました。

オオタ・ヴィン監督が、ここで行われている学校教育はとても羨ましいと思うが、全ての学校がこうなればいいと思っている訳ではない。というようなことをおっしゃっていましたが、そうなんです、皆が皆同じ教育が合うわけではないのです。

どちらが良い悪い、正しい正しくないではなくて

不登校者数が増え続ける今、私たちが考えなければならないのは、こうした

「教育の多様性」なのではないでしょうか。

 

続く

「ルール」を教え「モラル」を教えられていない学校教育

らのすけはずっと、生徒を見ていて気になっていることがあります。それは、モラルがない生徒が多いことです。

そもそも、モラルとは何か。

モラル

  1. 〘 名詞 〙 ( [フランス語] morale [英語] moral )[ 異表記 ] モーラル・モラール
  2.  道徳。倫理。行為の正邪とその区別に関する態度、また、広く人の生き方についての考え、精神的態度についてもいう。

    出典 精選版 日本国語大辞典

モラルというのは、上記にも「広く人の生き方についての考え」とあるように「普遍的な性質を持つ」もので、「自らの内面から発された心持ち」と解釈できます。

それに対して「ルール」は、「規則」であり内面ではなく外部から発動されるもので、所属するコミュニティによって内容が変わってくるものと捉えられます。

らのすけが、とっっても気になるのが「モラル」が著しく欠如していて「ルール」には雁字搦めになっている生徒が多いということです。

 

例えば、掃除に関して。普段から、担任らのすけがいないと生徒はすぐサボります。特に、雑巾がけは皆やりたがりません。そして、いつもサボる生徒はサボるし、律儀に人の嫌がる仕事をやってくれる生徒はいつでもやってくれるものです。

先日、らのすけはバタバタしており掃除がちょうど終わる頃に教室に戻りました。やけに早く終わっていたので「ちゃんと雑巾がけした?」と尋ねると「しました!」と、まぁまずやりそうにもない生徒が返事。

やってないであろうことはバレバレなのですが、いつも雑巾がけをらのすけと一緒にしてくれる生徒に「皆ちゃんとやってた?」と尋ねると「やってません。」と正直に教えてくれました。

すると「雑巾がけをやった」と嘘をついた生徒が、「お前裏切ったな~黙ってる約束だろ!」と、らのすけの目の前で自らの嘘を暴露。

もう、あまりのおバカ加減に笑ってしまいましたけども。
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もちろん、高校生にとって教室掃除は面倒ですし、早く部活にも行きたいし帰りたいし、モラルだけの問題ではないでしょう。

しかし、他愛もないことではありますが、「やっていないことをやったと嘘をつく」さらに「やったことにし口裏を合わせるようにクラスメイトに強いる」という行為は、充分「モラル」に反していると思うのです。

さらにもっと言うと、やはり掃除はきちんとやるべきです。誰から言われるでもないけれど、公共の場をきれいにするのは気持ちが良いもので「モラル」だと思います。(高校生にはまだ分からないかもしれませんが・・)

早く帰りたいのならばサボるのではなく早く終わる方法を考えるべきで、そこも思考が足りません。

 

果たして我々教員は、生徒にモラルというものを教えられているのでしょうか?(自分も含め)

例えば道徳の授業などにおいて、ある程度のパターンとして、あくまで字面上「いじめは良くない」「さぼるのは良くない」などという認識はインプットすることが出来るでしょう。なので、例えば言葉のうえではこうしたことをスラスラ言えたりします。

しかし、実際の行動を見ると、まったく伴っていない生徒が多いものです。

 

それは彼らが「モラル」として心に落とし込んでいるのではなく、「ルール」として「守らねばならない」と認識しているからだと思います。

先ほどのケースでは「掃除をしないと教室が汚れる」→「心地よく過ごせないし公共のもの粗末に扱うことになる」→「だからきれいにしよう」と、自発的に思うのが「モラル」であり

「掃除をしないとペナルティーを課される」からやるというのはあくまで外からの「ルール」に従って行動しているだけです。そこに「モラル」はない。

だから担任が見ていなければ平気でサボるし嘘もつくのです。

 

ちなみにらのすけはその生徒に何と言ったかというと

「神様はちゃんと見てるんだよ。信用するから、あと半年のうちに、見られていなくてもちゃんと出来る人になってね。」と言ってみました。

もちのろん、10%くらいしか期待はしていませんけどね。(ネガティブではない。だって人間だもの。)

 

「ルール」は「ペナルティ」とセットになることが多いためどうしても「ペナルティを回避するためにルールを守る」というように、行動がルールに規定されてしまいます。

「ルール」は本来、人が社会で生きる上で大切なことが定められているはずではあります。でも「なぜそのルールがあるのか?」を考えないで単に「ルールはルール」とすることは思考力の低下を招きます。ブラック校則などはその最たるものでしょう。

それに対し「モラル」は、それが理にかなった普遍的な人の生き方であるから、その行動を取る意味を理解していれば自分から自然と動くということです。

 

これは心理学でいうところの「内発的動機付け」と「外発的動機付け」にも重なるところが多いのではないでしょうか。

 

我々教員は、この似て非なるものを混同し「モラル」なく「ルール」に沿って行動する生徒を育てているのではないだろうか?

これって結構根深い問題だと思いませんか?

 

 

 

 

 

問題行動の裏にあるもの【高2の夏】

2学期が始まりました。いやはや、全然落ち着きません!

「高2病」の夏休み明け。まぁ鬼門ではあると思いますが、謹慎や特別指導の生徒が後を絶ちません・・。

らのすけが担任するクラスの生徒ほとんどは落ち着いていますが、やはり数人問題のある生徒はいます。どういう問題かというと、例えば首にキスマークをつけて登校してきたり、タバコ喫煙の経験をほのめかしてみたり、外泊をしたり、遅刻無断欠席をしたり、といったところでしょうか。高2病全開ですね苦笑。
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もちろん飲酒喫煙は現行犯を見つけたら逮捕ですが、彼らはほのめかしてカッコつける感じです。らのすけは、そこはわざわざ突っ込みません。

キスマークは、校則で指導内容は決まっていませんが他クラスでは指導対象になったことがありました。男女交際が禁止な訳ではないし校則はないので違反ではありません。そうやってイキっているということは、それなりに悪いことをしているであろう、という教師側の推測に過ぎないのです。らのすけは、キスマークをつけてきた男子生徒に「相手を(心身ともに)傷つけるような行為は絶対にしないように。」とだけ、しっかり伝えました。

 

そこまではまあ、様子見といったところですが

とある生徒が先日無断欠席をしたので保護者に連絡したところ、前日に友達のところに泊まりに行ったというのです。保護者は息子を信用して泊まらせたというのですが、まんまと彼は無断欠席です。彼は遅刻も普段から多いので、外泊なぞさせたらそうなるのは目に見えています。以前バイクの無免許運転で謹慎処分も受けている生徒なので、もう後がないですし、危なっかしいので外泊はさせるべきではないと、同じ親として思います。

保護者もさすがに手を焼いている様子だったので、2日連続で帰宅しなかったら警察に捜索願いを出すくらいのことを本人に言って家に連れ戻すよう促しました。その晩、彼は帰宅したとのことでひとまず安心しましたが。

というのも、一緒にいた生徒がこれまた、家を保護者に追い出されて数日あちこちと転々としている生徒だったのです。悪いことをしたという理由で家に入れてもらえずふらふらしており(本人は帰らなくていいことを喜んでいましたが・・)

その生徒と一緒に、彼もどこかに泊まったようなのです。そりゃぁそんな状況ならそうなってしまいますよね。でも彼らは未成年で、11時以降は補導対象ですし、普通にその保護者の対応はネグレクトに値します。

家を追い出された生徒も、根はとても明るく優しい子です。少し何かやらかしたとしても、保護者には子どもを保護する義務があります。きちんと目をかけてあげないといけないのです。しかしその保護者は「悪いことをしたのだからお灸を据えないと。」「数日追い出しても大したことではない。」と取り合ってくれないようです。

子どもが悪いから道を逸れたのではなく、大人の不適切な指導によって道から外れてしまったのです。

この例からわかることは、やはり子どもの問題行動の裏には、大人との関係性の問題だったりと、何かしらの理由があるということです。

例え子どもが大人しく親の言うことを聞かなかったりしても、親の言うことが正しくないかもしれないし、発達に凸凹のある子どもなのかもしれない。うまく自分の思いを言語化できないのかもしれないし、色々思うことがあっても、怖くて言えないのかもしれない。そんな子どもに寄り添う大人が周りに居なくて、幼いころから叱られてばかりだとしたら、どんな風に成長するでしょう?

こうした対応は甘いという大人がいるかもしれませんが、世に適応できている多くの子どもは放っておいても自分で乗り越えられる能力と環境がもともと揃っているのだと思います。

問題は、そうではない子どもなのです。そうした子には寄り添う必要があります。

 

ある程度成長してしまった子どもは行動や思考においても癖のようなものが付いていると思いますし、問題行動を繰り返すかもしれません。

しかし我々教員はそんな時こそ、保護者とは違った目線で、子ども一人一人に寄り添ってあげなければならないと思います。教員にまで問題児だと否定されたら、彼らはそれこそ道を外れるしかなくなってしまうと思うのです。

教員も杓子定規で〇〇の一つ覚えのように「ルール違反はルール違反」とか「決まりを守れない奴にはペナルティを与えて更生させるしかない」と取り締まるばかりではなく違う視点を持った方がいいのではないでしょうか。

普段、さんざん「生徒のための指導」や「生きていけるようにルールを守らせるのが我々の仕事」みたいな大義名分を掲げている教員があっさり

「あの子は早く退学になった方がいいね。」「辞めてしまえば後はもう知ったことではない。」というような発言をしているのをよく聞きます。

 

問題行動を引き起こしている理由は何なのか。そして我々教員は何をすべきなのか。

を考えることこそが教育なのはないのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

夏休み明けの絶望

今日は始業式。良くも悪くも、大して休めなかったからそれほどギャップがなく、諦めとともに始業式を迎えられそうです。

心境としては「無」ですね。学校が始まってからのことを一切考えないようにしています。笑

生徒も長期休み後には、休みモード(リラックスモード)から日常モード(臨戦モード)へのシフトチェンジに適応出来ない人が毎年出てきます。そのギャップが大きければ、不登校や自ら命を絶つというような手段を選んでしまうことにもつながるし、ギャップが小さければ、何となくじわじわと日常に馴染み戻ってゆく。

生徒だけではなく教員も、誰でも少なからずそのギャップはあるはずです。らのすけの職場の先生たちも皆、絶望のため息をつきながら始業式をするのです。

いわんや、日頃から学校が「安全基地」となり得ていない生徒にとっては、清水の舞台から突き落とされるような事態になってしまうのだと思います。

 

どうか、そんな時は自分を一番大事にしてください。いくらでも道はあります。

特に学生にとって「学校」というものは生活のほとんどを占めるので、学校が安全でないと死にたいくらい辛いと感じるかもしれません。

でも、長い目で見ると学生時代はほんの一瞬ですし、世界も広いのです。たまたま今、しんどい状況にあるかもしれませんが、絶対大丈夫。自分が生きていける道はたくさんあるのです。どうかそんな時は周りの話しやすそうな人に打ち明けてください。
f:id:ricefields-forever:20240828062955j:image(廊下の天井に必死にしがみつくトンボにシンパシー)

 

しかしなぜここまで、始業式がヘビーなのか。

それはやはり①普段から「教室が安全基地ではない」

②そもそも学校という場所が「頑張らないと生きて行けない場所」であり、「よいしょ!」とかなり交感神経のスイッチを入れないと過ごせない。

ということが、程度の差こそあれ、誰にでもあるのではないでしょうか。

 

でも教員としてそのような状況を作ってしまっている事には責任を感じます。

もちろん、らのすけの教室が安全基地となり得るように、とにかく「話を聴く」「リラックスできる」ことを意識してはいます。でも、学校全体の雰囲気まではどうにも変えられません。

どんな職場、どんなコミュニティーでもこうした「社会適応スイッチ」は必要だと思いますが、とりわけ学校という場所はその性質は強いかもしれません。

これだけ不登校者が増えている現状をみると、やはり学校も変わっていかねばならないのだと感じます。

 

だって教員が楽しくなさそうに仕事をしている姿をみたら、生徒だって当然楽しくないし、世の中に対して絶望しか抱かないですよね。

我々教員の務めは「世の中って悪くないよ」と思わせることなんだと思うので、まずは我々教員が生き生き働ける環境にしないといけないのだと思う。

 

なので、今日はこれから出勤したら、とりあえすらのすけは教室でニコニコしていようと思います!!!

よっしゃ行くぜ~~~!!!おりゃ~~~~!!!
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(昇降口でナナフシ発見!テンション上がるの図)